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加賀について

加賀はどんなところ?

加賀は1万2千年以上前から人が住んでいました。

 加賀は、南に白山や江沼三山を望み、動橋川(いぶりばし)、大聖寺川、八日市川、三谷川が流れ、加賀平野が開ける風光明媚な所であり、一万年前以上の原始時代の後期旧石器時代まで遡ります、旧石器時代、古代に至る遺跡が数多く発見されています。一番古いのは現在の所、宮地向山遺跡(1万2千年以上前)です、(世界で一番古い文明と言われているのが黄河文明で、5000年前)世界で最も古い文明を持っている地域の一つが加賀です。

 人間の住環境に必要な三要素は、日当たりが良く、水はけが良く、水の便がある土地と言われていますが、加賀で生活をしていた人々は、霊峰白山(2700m級)があり、この連峰の水の恵みで、川があり、草木が繁茂して、木材や山菜に恵まれ、狩猟や採集で生活出来ました。物々交換で海の幸も得られたと推定されるなど、豊かな生活を営んでいた事がわかります。

この頃は、採集、狩猟の生活で、弥生式時代以降は、稲作等で安定的した、食料の確保が出来、村落も増え人口が増えてまいりました。

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  遺跡の存在が、古代から、中世、近世を経て、近代から現代へと途切れることなく、先人の歴史をたどる事が出来ます。祖先が英知と努力で築いてきた歴史と文化、幾多の苦難の時代を乗り越え、手にした今日の繁栄の歴史を知っていただき、自然との共存共栄、共生の精神を取り戻していただき、地域創生を成しえていただきたく節に祈願いたします。

 

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(中出 栄三郎氏の地区史から抜粋させていただきました)

もっと詳しくは下記をご覧ください。

加賀市はかつて「えぬのくに」とよばれていた!! - 実高ふれ愛隊日記 (goo.ne.jp)

白山信仰

白山信仰と観音山

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 かつては夏でも真っ白な雪を抱く白山は、富士山、立山と並んで日本三霊山と崇められました。その信仰は、白山を眺望できる地に住み始めた頃から、自然発生的に起こったものです。

 平安時代には、仏教とあいまって、日本の神は仮の姿として、阿弥陀如来、十一面観音菩薩、聖観音菩薩が本来の仏とされ、神仏習合が浸透していきました。奈良時代には、大徳泰澄大師が登山し、我が国初めて十一面観音を感得したとされる、全国でも最も尊い観音霊場と崇められました。

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(実物ではありません)

白山に源を発する加賀。越前、美濃の河川流域は、加賀には白山寺、白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)があり、白山神社の総本社であり、多くの神仏を祀る社寺が数多く造営されました。 

観音信仰の起源

 旧石器の世界に於いて(3万年~4万年以前)信仰は、地母神(種族の繁栄や狩猟対象物の増殖の祈願に用いられた)自然信仰から始まりました。
 ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教等は地母神より歴史は浅く、男神(父神)を頂点とした体系的な協議が確定されていますが、このような大宗教が生まれる遥か前に、女神(母神)に対する素朴な自然信仰が世界各地で芽生えていたことが、近年の考古学の成果によって確認されています。

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「女神信仰は、人間の持つ、最も根源的な信仰の姿であった」「内藤 榮氏(女神たちの日本)

 今から何万年前から、人類は自然の恵みによって生き続けてまいりました。それは、大地なる母が産みだして頂いていると考えておりました。山に水源を持ち、そこから流れ出る川や泉、岩、樹木、洞窟が信仰の対象になりました。すべての人間の生命は女性が産みだし、生命は女性の母体に宿ります、そこから人間の繁栄が始まるのであり、神聖な事です。

 母性は万物を産みだす創造の力を備えています。人は誰しも母を慕い、母性に甘えます、観音像の美しさ優しさは、母性へのあこがれを表し、描いたり、彫ったりした作者も、母や、恋人をモデルにしたことでしょう。女性の子宮は蓮の花の蕾であり、開花は出産、神聖な誕生であります。そのことから、台座の蓮は生産・豊穣をもたらすシンボルとなります。

 観音像が造形化されたのは、インドで、二、三世紀頃で、ガンダーラの仏教美術でした。シルクロードを通って中国に伝わったのは紀元六世紀半ばからと言われております。日本への仏教伝来がその頃なので(538年)同時期の様ですね。

 

 「人は誰しも母を慕い、母性に甘えすがりますね。観音像の美しさ、やさしさは、そういう母性への人の憧れを表しているのだと思います。」特に日本は伊邪那美命(いざなみのみこと)が国を生んだという神話を持って生まれ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)は太陽を象徴していて、やはり万物の育成のシンボルと崇めています。」

                  (瀬戸内 寂聴「愛と救いの観音経」)

 

庶民の観音信仰は、有史からの民族宗教であり、形状は様々ですが観音さまは女神として信仰の対象となっていました。

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観音信仰とは

【 観音さま 】という呼び名は、私たちに安らぎを与えていただけます。

日本・中国・韓国・台湾等、仏教が伝播した、いずれの国の人達も、観音の名は知っておられます。

 私たちは、毎日の生活において、様々な感情の中で“生”を営んでいますが、観音さまは、常に、私たちのそばに親しく寄り添っていただいております。

 私たち、庶民にとって、観音さまは、女性であり女神です。悩みや悲しみから救っていただいているのは、天にあって見下ろす神ではありません。同じ地にあって、私たちと同伴していただく“女神観音”こそが求められます。喜びや楽しくある時も喜楽をともにしていただき、怒りにある時は、それを静めていただけます。

                「小島 隆司(救いの信仰、女神観音より)」

 観音さまは「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」と唱えれば、火難、水難、風難等七難から免れ、どん欲(物欲・金銭欲・食欲が強く、満足をせず、さらに欲しがる事)怒りうらやむ事、愚かでものの理のわからない事)の三毒から離れる事ができるのです。

 観音菩薩は、慈母観音、悲母観音といわれる様に、仏の慈悲とは母の慈愛を一身に体現する本尊として崇められてきました。理想的な女性のイメージを仏教化したもので、キリスト教世界の聖母マリアに対応するものでしょう。

数多い宗教の中で、日本人の生活に深く浸透しているものの一つとして、仏教に根ざした“観音信仰”をあげることができる。奈良時代の社会で、観音がもっとも古く信奉されていました。観音は、地蔵・不動に先んじて現れ、「観音経」等に説く、幅広く具体的な現世利益によって、日本人の信仰を集めた菩薩でありました。

 観音信仰は仏様の慈悲の心が菩薩に転化し、あらゆる庶民の悲しみ、苦悩を包んでいただく事を基本として、仏様の姿になられたり、三十三身に変化して、この世に現れるとされます。「南無観世音菩薩」と唱える事で、火難、水難、風難等七難から免れ、どん欲(物欲・金銭欲・食欲が強く、満足をせず、さらに欲しがる事)怒りうらやむ事、愚かでものの理のわからない事)の三毒から離れる事ができるのです。無限の慈悲を基本として、信仰の対象として、観音菩薩像が作られました。

 観音信仰の場として、清水寺や三十三間堂、東京の浅草寺等、日本各地に数多く点在しています。また、門前に典型的な門前町が形成され、多数の善男善女の参詣者を集めています。鎌倉時代から室町時代には、観音信仰が庶民化したことにより「西国巡礼」にならった、観音霊場巡礼が全国にもできる様に観光の大きな誘因となりました。

 昭和にはいり、群馬県高崎市に高崎白衣大観音(昭和11年)・京都に霊山観音(昭和30年)、鎌倉に大船観音(昭和36年)、加賀市には慈母観世音菩薩(昭和63年)等が作られ、全国に20か所近くあります。

 

造立の目的は多様であり

  • 観音信仰の普及 ②平和祈願 ③戦没者や災害犠牲者の慰霊供養や水子供養

④国民思想の善導 ⑤観光・展望 ⑥地域おこし 等々です。

 近年では観光・レジャーブームに対応するものも多い。大観音像を典型的な象徴として、ランドマークの位置づけをしています。

 個人や有志の意思によるもので、観音信仰に起因する事が多く先祖からの伝承と帰依、個人的な経験・体験等により発意する例が多い、例えば、事業家の場合、事業遂行にあたり観音信仰が大きな支えとなったという事由が多く語られ、親族等の慰霊や、故郷に対する恩返し等があります。

 このように、造立の意図は多様であっても、人々は大観音像を眺める事により、様々なイメージを持つ事になります。そこには、単なる物体としての存在を越えて、信仰心があらわれてまいります。

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加賀大観音

加賀大観音

 JR北陸本線が加賀温泉駅を通過した際、車窓から巨大な観音さまのお姿を目にしたことのある人も多いでしょう。通称・加賀大観音ですが、誰もがよく目にする光景であります。

 現在巨大な慈母観音像が立つ丘陵は、奈良時代に、武蔵の国から二人の僧が、それぞれ観音像を携えて来られ、一人は作見に、一人は寺尾山に安置され、観音山と言われていました。寺尾山と作見観音の位置は、冬至に白山から、日の出を遥拝する位置であり、円孤線で結ばれています。
 この大観音は1987年、加賀出身の土木作業員から「関西土地建物」社長にまで上り詰めた「関西のビル王」嶋中利男様という立身伝中の人物が、故郷を思い総工費280億円をかけ、全高73メートルの慈母観世音菩薩大立像と、壮大なスケールを誇る宗教とレジャーの、ユートピア加賀の郷をつくりあげたのです。

 当初は年間50万人の人出で賑わっていたという、1991年には温泉を掘り当て、20億を追加投資してホテルと温泉施設を整備。壮大なスケールを誇る宗教とレジャーのユートピアをつくりあげられたのですが。その後本業の営業不振、ユートピア加賀の郷への過剰投資で金利が膨らみたちまち経営は悪化。1997年には「関西土地建物」はついに倒産、2000年頃に閉鎖されました。

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 大観音像は高さ73mで、赤子を抱いている観音様で、赤子も16m(奈良の大仏様と同じ大きさ)あり、母が子に対するがごとく、深く大きな慈愛を向けてくださっております。
 1階は百観音札所巡りができるように各霊場の観音像が、2階は四国霊場巡りができるように各霊場の本尊がそれぞれ安置されている。

 また、3階から365段の螺旋階段を登って地上56メートルの喉元の位置まで胎内巡りができるようになっており、最上部には恵比寿、大黒天、布袋の像が安置されています。

 螺髪の部分は夜になると赤く点灯するようになっており、周囲に高い建物がなく離れた場所からも目立つためシンボルとなっていました。

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 所有者も転々とし廃墟化していましたが、北陸新幹線の停車駅にもなり駅舎も新造されました。加賀市のシンボルともなっていた大観音ですが、創設者の嶋中様の意志を継承し、地域創生の拠点として、加賀市の市民の方と、ユートピア(理想郷)創りをされたく、所有権を譲渡していただきました。

(加賀観音 73m)(自由の女神 46m)(千手観音立像 8m )
Features

施設案内

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加賀寺

本尊大日如来を中尊として、十一面観音千手観音阿弥陀如来不動明王薬師如来を安置する。加賀寺の根本道場である。

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瑠璃光殿

3層吹き抜けの堂内は人工池が設けられその上に全高17メートルの金色の五重塔が立っており、それを囲むように各層に仏像が安置されている。2021年時点では最下層のみ入場できる。

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加賀大観音

1988年(昭和63年)4月2日に開眼した、全高73メートルの慈母観世音菩薩大立像である

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加賀三十三間堂

1988年(平成元年)10月1日に落慶した。三十三間堂とは呼ぶものの京都の三十三間堂とは異なり柱間が三十三間ある構造ではない。

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金色堂

全高21メートル、天井の高さは10メートルで八角形のドーム状の建物である。

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梵鐘佛堂

道内に安置されている大梵鐘は、直径5メートル、全高10メートル、重量350余トンの合金製金箔張りの「世界一大きな」ものであり、表面には龍、天人、十二支などが彫られている。

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